表現の自由がなければ、受け取る感情の自由もない

表現の自由と、表現の適正化は別の話なんじゃないか。と、ふと思う。

表現が100個あるとしたら、それを100個出すことが表現の自由、最適化は100から選んで出す・出さない・改善すること。表現が不自由になったら、快適な世界になるかもしれないけれど、50個の世界でしか物事を見れない。

 

「この表現は不適切だ!」と思うのも自由。でも表現の自由が奪われたら、限られた世界しか見れず、そこでしか感情が動かない。自由と思っても、それは本当の意味での自由なのか。

 

君と私は違う。だから違うことを考える。だから、むかついて、怒って、ひどいことを言うこともあるかもしれない。それはそれで、正しいことなんだと思う。怒りや対立を恐れちゃいけない。それは自由に向き合っているのだから。

いけないのは、君と私は同じであれ、自分は正しいと、押し付けること。

 

表現の自由がなければ、受け取る感情の自由もなくなってしまうのかもしれない。