多様性と、モヤモヤと、自分の在り方と。

今日は、楽しみにしていたあるイベントへ行ってきました。

SNS公開は後日に……とのことだったので、詳細はまた別に。

じっくりまとめてnoteに記事化したいので、今日は感じたこと考えたことをツラツラと書き連ねようと思います。

 

 

多様性について

私は、あらゆる多様性について、受け入れていくべきだと考えています。
それは、「社会がそう言うから」という薄っぺらい上辺の思いではなくて、もっと個人的な思いで、多様性を受け入れられない世界は、自分が弾かれる世界で、怖いと思うからです。
身体障害も、精神障害も、ジェンダーの悩みも抱えていない私ではありますが、差別的な発言を見ると、すごく私自身が傷つきます。
なぜなら、今の基準では、今わかる情報や価値観のなかで私は「普通」かもしれないけれど、時代が変わってしまったら自分だって「普通」の枠組みから外れる可能性があると思うからです。
それは、私は他の人より◯◯で、とか予兆を感じているわけではなくて、単純に「未来はわからないのだから、自分にも可能性がある」と思っているからです。
自分がどうなるのかわからないのに、ある視点から見てマジョリティには入らない人に対して差別的な発言を見てしまうと「いつか自分にもそうされてしまうのではないか」と怖くなります。
また同時に、差別的な発言をしている人に対して「自分のことを棚に上げて、未来の可能性も予想できず、想像力のない人だな」と落胆してしまいます。

 

多様性を受け入れる・広げる過程で考えられる「傷」

今日、いわゆるマイノリティの方とお話する機会をいただいて、とても楽しかった。

直接お話をすることによって「自分となんら変わらない」と体験することができたからこそ、より身近に、より親しみを感じることができました。

ただ、ちょっと、いや、かなり不安だったのか、その方のマイノリティな部分を事前に知っていたからこそ、「会話」が難しかったんです。

もちろん、楽しくお話させていただいたのですが、「どんな話題を振ったらこの方は傷ついてしまうのだろうか?」と不安になってしまって、心のなかでは少しオドオドしてしまいました。
気持ちよく会話をつなげていくより、静寂が起きないように、がんばって言葉のボールを投げる、受ける、を繰り返す……そんな感じでした。

 

そうなったのは、過去の経験があったからです。

性的マイノリティを公言している友達がいるのですが、当時はたしか公言していなくて。

他の友達にも性的マイノリティな友達が普通にいたので、どちらかというと「その人のことを知りたい」「差別的な視点は持ってないよ」という姿勢を示したくて、会話の中でぽろりと聞いてしまったんです。

「あなたは、男性と女性、どっちを好きになるの?」と。

その友達は明るいトーンで「そういうことを聞かれたくない人もいるんだよー!」と返してくれましたけど、本人が望んで話そうとしてなかったのに質問するのはアウティングを誘発する行為で、傷つけてしまったな…と反省しました。

シンプルに「自分が差別しないよとポーズをとること自体や、無自覚に他人を傷つけることがあるかもしれない」と考えるきっかけになった出来事です。

 

だからこそ、今日お話をできたときに「傷つけてはいけない」「会話は慎重に」ということばかり頭の奥で考えてしまい、ドギマギしてしまって、そういうときに限って「あ、この質問はナンセンスだったかも……」という言葉を自分が話をしてしまっていました。

 

理解し合うには、傷つけずに行うことはできないかも

自分を決して棚に上げるわけではないのですが、あらゆる多様性を理解したいと思っている私ですら、満足に相手を理解できていないことが多いと感じています。

でも、結局は……と思うのは、実際に話したり、行動したり、コミュニケーションをとらないと、わからないと思います。

想像で理解できるのは、ただのマジョリティに都合の良い暴力的なファンタジーなんですよ。きっと。

だからこそ、私が自分自身に言うべきは、「傷つけるかもしれないけど、一歩進んで聞いてみよう。傷つけてしまったら、シンプルに「ごめんなさい」しよう。」なのかなと思っています。

子供が力加減がわからず友達の子供を泣かせてしまうかのように、経験を通して「自分がやったことは、だめだったんだ」というのを身を以て学んでいくしかない。

その代わりに私が個人的に、あらゆるマイノリティの人、マイノリティに関わる人にお願いしたいのが、「マジョリティの人が最初は傷つけてしまうかもしれないけど『仕方ないな』と受け入れてほしい」、あと「傷ついたらシンプルに『傷ついたよ』と教えてほしい」ということです。

学ぶということは、やっぱり失敗も含めて学ぶことだから。
(もちろん、悪意を持った言葉や、配慮のない態度は認められるべきではないし、普通に怒ってしかるべきだと思います)

 

これも十分、マジョリティ側のエゴな気はするのですが、今のところ頭の中で間違ったことを想像するよりも経験をしたほうが良いのではという考えにまとまっています。