タイムログの成果:自分の集中力の1ターンを知る

タイムログを取り始めて、はや半年。

厳密な時間のメモと評価をつけ始めてからは1ヶ月以上。

タイムログをつけてきたからこそ気づいたことがある。

 

1時間半を1ターンとして集中力が切れてしまう。

そして身体的・精神的に「ああ、疲れた、だるいな……」と思ってくる。

 

大学の授業の時間も1時間半くらいだった気がするので、これが人間で集中できる時間なのかもしれない。

映画もだいたい1時間半未満だし。

 

しかし1時間半という時間だけでは大きな作業は完了しない。細々な対応をしていたら1時間半なんてあっという間なのである。

しかも休み始めると10分では今のところ回復しない。

でも30分も休んでしまうと「時間の無駄」と感じてしまう。(けれど集中できなくて、それくらい実質休んでしまっているのでは、となる……)

 

★短時間かつ効率的な休息方法を見つける

★休息からの復帰のコツ

★集中できる時間を伸ばす方法

の3つあたりが必要な気がしてきた。

 

タイムログで自分のクセを知るということはまずできたので、
上記の解決方法を今度時間があるときに調べてみよう……

 

おまけのiPadのお絵描き練習。

描きたい絵柄を見つけたい…。

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コロナ禍の音声メディアの向き合い方って難しい。

この2〜3年、自分を変えようとしている動きのなかで取り入れたものがある。

それは「音声メディア」だ。

オーディオブックなどはほとんど取り入れていないけれど、Podcastやvoicyなどでいわゆる「個人のラジオ」を聞くようになった。

 

いま聞いているのはvoicyでワーママはるさんの番組と、Podcast(prime musicにしている)でコテンラジオと、最近みんなのメンタールームも聴き始めてみた。

 

音声メディア聞いてると、芋づる式に気になるものが出てくる。聞いている番組のパーソナリティの人が別の番組をやってることが多いし、話題で別の番組を上げることも多いからだ。
ただ、私個人だけかもしれないけれど音声メディアは好き嫌いが激しく出てしまって、好みによって聴きつづけられない確率も高い。

それは声だったり、話し方だったり、BGMのありなしで「(生理的に)ちょっと聴き続けられないかも」「興味が持てない」というのがハッキリ出やすいのだ。

自分に合う番組を探してひたすら音声メディアの波を旅している。

 

あと、最近少し悩んでいるのが「音声メディアのより良い聴き方がわからなくなってきた」ということだ。
今までは通勤や打ち合わせの合間の移動、気軽なショッピングがあったから、その時間に耳は音声メディアにしておくのがちょうど良かった。

ただ、このコロナ禍で在宅仕事しながら聞くには話に集中できないし、かと言って家で音に集中しよう(ほかに何もしない)とすると何か「視界の物足りなさ」を感じてしまう。家事する時間にちょっと聞けるくらい。

本物のラジオのように聞き流して「全部聞いてはいない」という状態にしてしまうのもコンテンツ的にもったいない。

他の人はどうしているんだろう?

 

休むときは、何も考えない?満喫する?

この土日は、めちゃくちゃのんびりダラダラとしていた。

昨日は一応はGWにできなかったホットケーキ作りをして、必要な医者のハシゴをして、食品の買い出しをして、オンラインイベントに参加はしたけれど、

日曜日の今日はほんとうにダラダラとしていた。

やったことといえば、読んだことなかった宝石の国を読んでみて、あとは他の漫画もぼちぼち読んで……くらいだった。家の外にも出ていない。

 

土日になると、本当にだらだらしてしまう。

朝起きる時間は、流石にペットがいるので変わらないけれど、

朝のペットの世話が終わって朝ごはんを食べて一息ついたら昼までまた寝てしまうのがいつものルーティンだ。

前日お風呂に入りそびれた場合は、春起きてからお昼ご飯を食べて、そのあとシャワーを浴びて……てな生活なので、ようやく外に出れる状態になるのも15時くらいになってしまうので、なんかもう良いやあ……と言いたくなってしまう。

午前中に予定を入れて、1日を有効に使えるようになりたいなあと常々思っているのだけど、

カレンダーに入れた自分だけの予定はやる気が持てなくて流れてしまう。いつも「めんどうだから、今週はいいかな」とやめてしまう。

土日の予定は、大概決めていても当日になるとまあ急ぎじゃないし良いかなあと思ってしまう。タイムマネジメントもくそもない。

(とりあえずやったことのタイムログだけは続けている)

 

なんとかしたいなあと思いつつ、やる気がどうも…。

また、休みの日くらい、せかせかタイムマネジメントをするのも息が詰まるな?という思いもある。

何も意図しない、あるがままに時間を過ごす時間。そういうのがあっても、いいんじゃないかなあと思う。

 

とは言え実りある休日を過ごしたいなと思ってしまうんだけど。

つらつらと答えのないことを考えている。

伝えたいことが決められない

自分のなかでふんわりしていることをメモ。

 

毎月やっている対話式のオンラインイベントで、1部だけ私がスピーカーとして話すことになった。

そこで何をテーマに話そう、何をゴールに話そう、というのが私の中でなかなかに決めかねている。

テーマもゴールも自由。自分で決めなくちゃいけない。

頭の中でふわふわと、私が話したい話題のカケラや、他の人がわたしから聞きたいという話題のカケラは思い浮かぶけれど、川上から川下まできちんと通るような、軸のようなものが決められない。

 

自分で決めたりするのが本当に苦手だ。

自分でテーマを決める卒業研究もボロボロだった。

自分の「好き」や「伝えたい」が、自分の中で「本物だ!」と決めることが本当に苦手で、好きだけどそこまで深く好きじゃないかも、もっと良い選択があるのかもしれない…と思ってしまうのだ。

 

まあ、ここまで書いて、そういうところが、私らしくあり、

メインタイトルに決めた「誰かの夢の『叶え組』」というトークテーマに繋がっていくんだろうな……と思う。 

そういうのを決める星に生まれていないというか。(これはネガティブな発言ではなくて、事実としてそう見ている、という話)

 

モヤモヤ考えているうちに、トークのゴールと話したいことの流れはたぶん、いずれまとまっていくとは思う。

それが誰かに響く内容になったら、嬉しい。

 

とは言え。

とは言えだ。

誰かに届くものを、作れるような人でありたい。

そういう人であるには、やっぱり人に届ける経験がないと、できるようにはならないと思う。

どういうカタチになるかはわからないけど、自分がテーマを決めて運営する何かを定期的にやったほうが良いかなと思い始めてきた。

このブログもアウトプットではあるけれど、「ただアウトプットをする」というための目的なので、テーマも内容もぼんやりしてていいやと思っているので、中途半端。

このブログを届けることを目的としてしまうと、きっと更新が止まってしまうだろう。

そういうことにはしたくない。低いステップでも続けなければ上に上がれない。ここの動かし方は変えたくない。(変えるとしたら、自分が無意識にでもできるくらいにステップアップしないと)

 

なにか、何かやりたいな。

隔月くらいがよいだろうか。

考えたい。

やる気の維持

ゴールデンウィーク明けの2日。

「やる気を維持すること」に効果があったことをメモに残す。

 


1.集中できないと思ったら場所を変える

物理的に場所を変えることで集中しやすくなる。

ただしこのコロナで外に出ることが憚られるのが課題。

 


2.仕事の最低限は何かを考える。最低限を満たしたら良しとする

一番重要な事は何かを客観的に判断する。最低限満たせていたら後で後悔はしない。

 

3.めんどくさいけどやっちゃおうの精神(※)

最終的に、残念ながら、やらない限りやる気が起きない。やってみるしかない。

やりたくない気持ちにどう立ち向かうかが課題。

わたなべぽんさんの「ズボラ習慣をリセットしたらやる気が戻ってきました」より


4.思い浮かんだこと・気になることは一旦メモに起こして、忘れる

寝る前や仕事中など、他のことをやらなければならないときに何かが気になった場合、一旦メモに起こすことでアウトプット→満足させる。

 

全部当たり前のことだけど、備忘録としてメモ。

他にも出てきたらまた書こう。

「良い」「悪い」はわかりやすい

最近、歴史キュレーションプログラム「コテンラジオ」を聴き直している。

Podcastのラジオ番組みたいなもんである。

 

 

聞き直している中でふと、話し手の深井さんが「『良い』『悪い』ってわかりやすいから」と言っていてハッとした。

たしかに……人間って、良い・悪いを無意識にでも決めたがるし、決めてもらいたがるのかもしれない。

だって良い・悪いがはっきりしていたほうが自分は悩まないし、決めるために苦しむことはない。

でも色んな物事はだいたい複雑で、一概に「良い・悪い」なんて決まらない。

だから何かが「良い・悪い」と掲示してくれるほうが、誰かが掲示してくれた「良いもの・悪いもの」のほうが、人は受け入れやすいのだろうと思う。

人は簡単でわかりやすいものに流れてしまう。

だから、良い・悪いという極端な判断をされたものに吸い寄せられてしまうのかもしれない。

それが本質的に何であるかを考えることを諦めて。

 

ちゃんと、目を凝らしていないと、本質的なものが見える機会が少ないのかも。

気をつけないとなあ。

人をどう信頼するか?

この間、人に言われてハッとしたこと。

 

私はある人を信頼できるか悩んでいて、いずれ距離を置いたほうが良いのではと思っていた。

そのときは、人を信頼できるかをHPのゲージのように、1つの総合的な基準で0〜100のどのレベルだろうかと決めかねていた。

その基準だと、信頼度ゲージのここだ!と明確化できないものの、なんとなく不信感が拭えず、いずれは距離を置くと決めたほうが良いのではないか……と考えた。

 

でも、そのことを人に相談したとき、

「悪いところがない人なんていないんだし、「アリ」「ナシ」ですぐ決めつけなくてもいいんじゃない? 『いま』『ここだけ』信頼するっていうのもアリじゃないかな?」

と言われてハッとした。

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たしかに。

1つの総合的な信頼度で、この人は0〜100のどこに当たるだろうと考えて、自分が客観的・総合的に正確に判断できるなら良いだろうけれど、なにか些細なことでも不安な点があれば50以下にするくらい、曲解した判断をしてしまいそうになる。

言われた通りに、悪いところがない人なんていないのだから、不安がない人なんて、本当に少ない。そうなると、信頼できる人には全然巡り会えない。

 

人には色んな要素があって、それぞれが良いものをあれば悪いものもある。

自分から見て、ここの要素だけ信頼できると思ったら、「『ここ』だけ信頼しよう」と自分で決める。

期待し過ぎることも、不審に思う必要もない。(自分が信頼できると思う部分だけ信頼するから)

また、自分で決めるということが重要で、他人に舵をとらせて不安に思うこともない。自分で決めたのだから。

 

言われたことにハッとして、納得して。

悩んでいたその人との関係を、以前より気楽に考えられるようになった。

この部分だけ、いま、信頼する。

未来はわからない。決めるのは自分。

自分で決められる、判断の手綱は自分が持っている安心感がある。

 

白か黒か、ハッキリできれば悩むこともないだろうけれど、人はそんなにわかりやすいものではない。

その曖昧な部分も受け入れて、極度な判断をしない。黒だと決めつけて、可能性をなくさない。

 

 

こうやって他人や自分を受け入れても良いんだね。